実は私、2月中旬からカゼをひいてしまいまして、2月末に一旦は治りかけていたのですけど、先週金曜日に再び調子が悪くなってしまい、病院に行ったところ「気管支炎」と診断されました。初めて点滴っていうものをする羽目になってしまうし…高熱は出すし…。幸いにも肺には異常なかったので命に関わるものではなかったんで…とりあえず「ほっ…」ですけど、まだ仕事以外で(ネットを使う仕事をしていますんで…)ネット完全復帰は辛い状態です(T_T)。このエッセイを楽しみにしている皆様本当に申し訳ございませんm(_)m
 今まで日記をかけなくて本当に、本当にご迷惑おかけいたしまして申し訳ございません。m(_)m理由は多種多様に及びますけど、仕事多忙だった(12月は特にそうでした…)り、体調がよくない時もあったりしたけど、最大の理由は「ネタの吟味に時間が思った以上にかかってしまった」ということです。ま、何をいってもいいわけにしか過ぎませんけど…。

 ということで、今回は今まで参考にした本を2冊紹介いたします。
まず1冊目は、(誤解しないでほしいけど)あのTVタックルでおなじみの田嶋陽子先生の著書「愛という名の支配」です。私は一応「田嶋理論賛成派」であります(今の結婚制度に反対+男女平等主義という意味で)。もっとも細かいところでいくつか自分の考えと異なるところはありますが、大まかに言えば「大同小異」の範囲なんで…(だから「一応」をつけなきゃいけないんですけど)。自分が今まで唱えている「愛という名の元に拘束されるのは絶対にいや」という考えをこの本を読んで改めて確立させました。

 もう1冊が、梁石日(ヤン・ソギル)氏の著書「男の性解放〜なぜ男は女を愛せないのか〜」これは男性が書いた「男性優位社会批判」である。男社会という幻想に女性はもちろん、実は男性こそ束縛されているという理論の元に男性の性解放を唱えているのである。ここでの男性の性解放はいわゆる酒池肉林的なものでなく、「メンズリブ」的なものである。男性が「男らしさ」から解放されることが大切だと唱えているのだ。なお、この本では「男はなぜ「若い女」を好むのか?」といった女性からの質問状というコーナーもあり、著者が答えるというもので大変おもしろい。

 この2冊は、はっきり言って2冊同時に一緒に読むことをおすすめいたします!ハハハ…。

 これからですが、本当はネタさえあれば毎日更新したいのであります。しかし現状では仕事が忙しいのもあって毎日更新はできない状況で、もしかしたらネタ吟味の為に更新がかなり遅れることもあるかもしれません。ですけど、恋愛論、性愛論、しいてはそこから発展して結婚、男女論につながることも出てくるかもしれませんが、どうぞこれからも、読者の皆様(いつも本当に感謝しておりますm(_)m)、このエッセイをよろしくお願い申し上げます!!m(_)m
 遠距離恋愛というのが、実は究極の「束縛なき恋愛」なのかなあ…って思うときがよくある。自分がすでに遠距離恋愛(しかも複数だけどさ…←悪かったな)をしている身であるからこそ出てくる意見でもあるが、今の遠距離状態をめいっぱい楽しんでいるのが現在の私である。もちろん近くにいていちゃいちゃしているのもとってもいいけど(でも1人だけじゃないからハチ合わせっていうことになったら修羅場バンバ〜♪←ぉぃ)遠距離には遠距離なりのメリットがある。ま、複数愛する人を存在させるのを可能としているのもっていうのはおいといて…、距離が離れていてず〜っと一緒にいられる状況じゃないからこそ、かえって束縛されず、拘束されず、それ故にお互いに信じあって愛し合うといった「束縛なき本当の意味での愛」がはぐくめるのでは?と考えてしまうのだ。

 去年のある日、いつもつい夢中になってしまう(だから日記の更新がぁ…(^^;)っていうのはおいときましょう…とほほ〜スミマセン)某球団ファンサイトのチャットでたまたま男性2人と私のみで恋愛の話をしていた。たまたま私がいたから恋愛の話になっちゃったのだが(^^;)、そのときにある人(仮に某1さんとでもしましょう)が愛情というものは「惜しみなく与えるもの。けっして見返りを求めないもの」と定義づけていた。見返りを求めないもの…確かにそうである。私もこの定義付けに一致している。現在の私が遠距離恋愛であるがために見返りを求めたくても求められない環境だからもちょっとはあるけど、たとえ相手が近くにいたとしても、見返りを求めてはイケナイ。ただ、現実にお互いに近くにいるカップルだと、果たして見返りを求めない愛情で有り続けているのだろうか?私はそう思えなく感じてしまう。たとえば「オレはおまえを愛しているから、おまえは一生ついてこいよな!」といった「オレについてこい」的要求や、相手に対してやきもちを焼いたり嫉妬したりすることは、自分に対する愛情の単価として無意識のうちに見返りを求めているのではないのだろうか?恋愛はお互いに愛し合い、お互い自主的に努力しあって愛情をはぐくみあうものなのに、ついてこれない人は愛情がないっていうのはいささか勘違いだなぁ…と考えてしまう。また、嫉妬するのは一見愛情を確かめているようで、実は一方的に愛することを押しつけ、しいては愛情という名の元に束縛するものなのである。時々「オレは彼女に嫉妬された方がいいんだけどなあ…」ってのんきなことをいってる男性がいるけど、本当に嫉妬されたらどうなるのだろうか?まさか「うるせー!」なんていうんじゃあないんだろうね。←言う資格全くないし、「嫉妬されたいといっていざとなっていやっていうのはどういうことよ〜!うそつき!」そのものである。もっぱら、私は相手に対して嫉妬はしたことないし、嫉妬されたいなんて思うどころか嫉妬深くてやきもち焼きすぎる男性は敬遠してしまうのだが…。

 そういった意味で、私が現在やっている遠距離恋愛っていうものは、束縛なき恋愛=真実の恋愛にとってもっとも都合がいい恋愛状態なのかもしれない。遠距離恋愛なんてできないと思いこんでいるあなた、旅をして遠くの人を愛するというのにもチャレンジしてみては…?!
 皆様は自分の老後について想像したことありますか…?私はあります。それも大学時代、理想の老後として(当時は教職目指していたんで)「教師を定年退職したあとで編曲家になって余生を過ごしたいな…自分の(当時の)師匠(吹奏楽の)のように…」なぁんて非常にPositiveに想像していたんですね。でも今だって60歳過ぎたら編曲家になりたいなぁ…って思っているんですけどね…?!

 で、ここで何を書きたいのかというと、実は「老後になっても、恋愛というものができるのか?」ということについてであります。おそらく私の世代(20代後半)だと「チャーミーグリーン」のCMを思い浮かべる方が多いことでしょう。おじさんおばさんになっても、お互いに愛し合っていたい…っていう幸せな老後を思い浮かべちゃうかな…。

 ところがです。実際の夫婦が互いに60過ぎて変わらぬ恋愛(ここではあえて夫婦同士を指しますが…)しているのって、そんなに多くはないでしょう。というのも世間体も「60過ぎの老人がなによ今更恋愛なんてねえ…恥ずかしい」という見解らしいし、夫婦間ももはや「とうちゃん・かあちゃん」とみなして男性・女性として性的対象に扱わない(扱えないのも含む)のもあるけど、精神的にも肉体的にも性的魅力が枯れてしまった(と思ってしまう)が故に恋愛そのものができなくなる(と錯覚してしまう)からなのではとも受け取れる。でも1番の理由は身体的なもの…すなわち性能力そのものが衰えてそれが恋愛できないという状態につながってしまうからではないのだろうか?

 確かに更年期を迎えてしまい、特に女性は閉経して一応の「子供を産む性」としての女性役割は終焉を迎える。最近注目されているのだが、男性だっていわゆる「不能」状態になってしまい、肉体関係(のうちの生殖器の部分であるのが正解なのだが)ができなくなってしまう。だが、果たしてそれでもはや恋愛ができなくなってしまうのだろうか?ここに従来の「男尊女卑的恋愛+性愛関係」に縛られてしまうが故にそこからの恋愛を阻んでしまうのではないのだろうか?と考えてしまう。

 男性の場合は「不能」になった時点でもはや「男性としての役割」を終わってしまうという一般論があるらしい(「男の性解放」梁石日著より)。ところが女性の場合は閉経したからといって全く性交渉ができなくなるのではない、というより生殖としての役割は終わっても、女性としての性的器官としては役割を終了しているわけではないのである。だから更年期過ぎていわゆる「老後」になってむしろ女性の方が元気がいいのも(寿命だって長いし…)その理由だからではないのだろうか?

 だからといって男性は不能になった時点で「もうオレはダメ男だ」と考えてしまうらしいけど、そこに私は「ちょっと待ったぁ〜!」と意見を述べたい。確かに性的能力は衰えたのかもしれない。でもそこからむしろ「真の意味で女性を愛する」ことができるのではないのだろうか。性的器官に頼らない、肉体や力、地位や立場(=男社会)に頼らない、まさしく精神的に対等的に愛することに目覚めることはできないのだろうか?という考えだからだ。そう考えると、老後の恋愛は、実に純粋なものになるのではないのだろうか?

 昔はやっていた「チャーミーグリーン」のCMみたいになれるかも…。
 それから私はちょっぴり反省の色が…今日はすげー乱れデーだったよなぁ…1日に5回はやったことあるけど(本当。でもその当時、相手は1人だったけど)、この時点で3人かよ〜…しかも夜はあの方と約束しているし…。そうです。この日の夜、本当に久しぶりに一番遠いあの人に会えるんです〜。それを待ち遠しくしていたのに、もう3人もはしごしているし…。しかもここでまたしてもお気に入りの男性とハチ合わせてしまう…。今度は横浜にすんでいる星弘(仮名)だぞ。なぜここに来たの?って聞いたら、どうやら仕事の出張帰りにどうしてもちょこっとよりたかったらしい。驚きをとまどいがありながらも、やっぱり遠くからわざわざ来てくれたし、うれしい+感謝である。「1時間くらいしか一緒に居られないけどええか?」いいの、1時間くらいでも、その分内容の濃い時間にするからね。複数好きな人がいるけど、それぞれに「好き」という気持ちは変わらないものである。約1時間、めいっぱい2人の時を楽しんで駅で見送りした。さ〜いよいよメインイベント。その方が乗っている汽車の到着が非常に待ち遠しい。そしてとうとうそのお目当ての汽車が到着した。いよいよご対面〜。いた!アレがまさしく一番遠い星晴(仮名)だ!まるで映画のように互いに走りながら近づいていった。「会いたかったよ〜星奈ちゃん…。」「私もよ〜!」1年に1回会えるかどうかのような遠い距離の人なのに、つい最近会っていたような気分を持たせているのがこの星晴(仮名)である。思えば初めて会った時、何だか初めてでないような、以前からの知り合いのように感じてしまった人物である。こういう人って、いるんだよね。自然にすぅ〜っとおしゃべりできてあっという間に愛情をもってしまっちゃう人。それがこの人なのだ。その後は決しておしゃれじゃないけど私おすすめのおいしい店でディナーを味わい、その後は…「どっかいこうか。」「どこにでもいくわよ〜」となって…あげくの果てにレンタカーなんか借りちゃったりして向かった先は……やっぱりあの場所、場所はちょっぴり違う所だけどね…それからは「あんなことや、こんなことぉ〜……」

 ………がばっ?!はっ!?…ゆ、夢かぁ…せっかくいいとこだったのに〜ここがクライマックスだったのに〜目が覚めちゃったよ…。とほほ(−−;;;;)。

 ということで、今年の初夢も乱れちゃいましたとさ。今年もよろしくお願いいたします〜。好きな人は複数いるけど、まだまだ募集中ですよ〜ん?!←ぉぃぉぃ…。
 大変遅くなりましたが、皆様あけましておめでとうございます(喪中の方はすみません)。大変長らくお待たせいたしました。皆様が待ちに待ってい…ないかもしれないけど、お久しぶりの今年最初日記であります…。

 さて、私は現在遠距離恋愛(っていっても1人だけじゃあないけどね…複数愛賛成派だし…)していますけど、私思うに、自分にとってある意味一番いい形の恋愛かもしれない。遠距離がゆえに愛という名の元に束縛されないし、見えないがゆえにかえってよけいな心配をかけなくてすむからそれ故にむしろお互いに信頼しあえることだってある。だからといって絶対に会えないというわけじゃあなく、会えるタイミングが訪れた時に会っていっぱいおしゃべりしたり…したりして愛し合っているということを確認しあうのである。

 ところが、このことを他の人(ネット上でもネット外での知り合いでも)に遠距離恋愛していることを教えるとかなりの人が「えぇ〜っ!遠距離なんてすごいなあ…私には無理だよ〜」というのです。理由はというと「好きな人はやっぱり近くにいないとだめだから」だという。好きという事実は変わらないのに、なぜ近くにいないとだめなのだろう…?

 理由を聞くと「浮気されたらいやだから」、「自分がやきもち焼きで甘えん坊だからそばにいないといや」とかといった不安モノが圧倒的である。たとえ姿が見えないとはいえ、そんなにまで不安なのかなあ…。お互いに愛し合っているのであれば、もっとお互いに信頼しあってもいいのに…。

 自分としては、遠距離であっても愛情は変わらないし、たとえ愛情がなくなったとしてもそれを遠距離のせいにしては決してイケナイと考えている。ま、今のところは愛情がなくなるっていうことなどないけどね。何より「遠距離だからといって、愛情に距離など関係ない!愛し合うという気持ちと意志をきっちりと持ち続ければ別れることは絶対にない」と気持ちを固めているのだ。結婚はしたくないけど、好きな人なのは自分がどこにいたって、相手がどこにいたって変えたくないし、万が一愛情がなくなっちゃったということなら、それは近くであってもやがて愛情がなくなる運命だったと考えるべきであるから…。

 というのも実は以前こんな話があるTV(北海道の地元番組なんで…)で話題になった。それは3年間の遠距離恋愛の末にめでたく結婚。ところがその後一緒に住んでいるうちに夫婦の気持ちはすれ違ってしまい、互いに愛情がなくなって離婚を考えているという有様だという。私が分析するには、遠距離恋愛のままだったら、愛情はもうちょっとは続いたかもしれないけど、これじゃあ遠距離恋愛でなくっても近くにいてもダメだったのかもしれない。いや、いざ一緒になってしまったが故に悪い所まで見えてしまい、修復できないまですれ違いが起こったのだろうなあ…と考えている。

 とりあえず、ここで書いておくのは、遠距離恋愛で必要なのは、お互いを信じていることと、距離があってもそれ以上に愛する気持ちを大切にすることです。遠距離恋愛はすぐにダメになるっていわれることが多いけど、それは距離のせいに勝手にしているだけだと思う。遠距離というだけですぐダメになっちゃうのであれば、それはたとえ近くにいてしょっちゅう会える状況であったとしてもきっといつかはダメになってしまうであろうと思う。お互いに信じているっていっても、それをやきもちにすり替えるのはダメだと思う。やきもちは一見愛情があるようで、実は相手を完全に信じていないからこそ起こるのだから、本当に信じているのであればやきもちをやくなんてむしろできないでしょう。相手を信じて拘束しないこそ、遠距離恋愛はうまくいくものだと考えている。(2につづく…かなあ…?!)

 突然ですが、未来日記なるものを書いちゃいました。タイトルはずばり「私のある日の長〜い1日」だって…要するにこういう1日を過ごしちゃったらどうしましょ?!っていうようなものです…まあ、見てください…ハハハ。

某月某日(日):天気・晴れ。一人暮しを久しぶりに再開して1ヶ月ちょっと。うるさい親がいないのはやはり快適である。日曜で仕事休みなのでゆっくりしていたら「ぴんぽ〜ん…」…誰だろう?玄関を空けたらそこにはなぜか1番近く(っていっても隣町の人だけど)の好きな人が…?!「どうしたの?こんなに朝早くから…」「いやぁ…今日本当は俺も休みだったけど急に仕事が入っちゃってさぁ、でもおめぇに会いたかったからうちまで来たんだよぉ(←なぜか東北弁混じり…)」…まぁ、だいたいは検討つくんだけど…要するに、本当は休みなのでゆっくりと夕方あたりのデートをしたかったのに急に出勤になっちゃっておじゃんになっちゃったけど、せめて朝時、私に会える時に……したいからなのである。そうなると展開は自ずと……(自主規制)。「もうっ…好きなんだから。うふ。」「おめぇのおかげで気合いが入ったよ。今度の休みはおめぇの行きたい所にいこうな。」次のデート約束をつけてその彼は仕事へと向かっていった。「1番近くだし、いいけど、それでも地元よりちょっと離れている彼…でも、ちょっとだけでも離れているからこそ、縛られなくっていいのかも…。」会える時を大いに楽しめる遠距離恋愛に慣れ親しんじゃった私ならではのいつものような決めぜりふ←すごくクサイぞ〜…。

 その後、ようやく朝ご飯を食べてから「そっか、今日は本返却締め切りだったから、図書館行かなきゃ」ということでバスで図書館へ…と思ったすきに携帯電話のメロディ(BayStarsのテーマ)が…。「もしもしぃ…誰〜?」何と電話の相手は鉄道ファンではないけど鉄道旅行好きなある地方の彼…。きっとまた北海道1周フリー切符を使った鈍行列車の旅だろう。図書館に行く途中に駅があるので駅に行ってみるともう彼がいたのだ。「あと1時間40分くらいしか居られないけど、その分思いっきり一緒にいような」久しぶりの彼…北海道の人でないからだろうか、ちょっと休みが取れたのであればこのような北海道1周フリー切符で私の所へとよっていくのだ。その分今度こそはあなたの所にもよるからね。わずか1時間40分だけだけど、すごく短いようで長い2人っきりの時間を過ごした。どこで何をしたのかは省略しますけどさ…ハハハ。で、汽車が行って再び1人になったと思ったら、今度はなにやら見たことのある車が…「お〜い、星奈ちゃ〜ん!ひっさしぶり〜!」何であんたまで来るのさ〜?!とまでは思ってないけど、すごく偶然にこの間のBayStars道東シリーズで一緒になっちゃって勝利の抱擁の後でずるずると…なっちゃった男に出会った。彼は道南住まいなので同じ北海道内でも遠すぎてとても会いたいときに会えるなんていうもんではない。しかし彼はドライブが大好きでRV車で寝泊まりしながらの生活もへっちゃらなので、本来図書館に行くはずだったのが早速ドライブタイムに…。あちこちぐるぐるとうろついているうちに次第に車はあやしいホテルの方へ…「やっぱりこんなところにいっちゃうの〜?!ま、いいけどね。久しぶりだし、やっぱり…なこと好きだし、あなたのこと愛しているし」その後の展開は…ご想像にお任せいたします(手抜き…)。夜に一番遠いあの方との約束があるのについこんなことしちゃう私って…?!帰り際、「今度会える月は○月▽日っと…」と次の約束を一応メモして…っと。で、後編につづく〜←いつだよ…。
好きな人には、できるだけいっぱい会いたい。
好きな人が複数いたら、それぞれにいっぱい会いたい。
でもその人たちは皆、近くにはいない。
遠く離れた土地にいる。
いっぱい会いたいと思っているけど、だからといって、
相手の人に会うことを求めることなどはしない。
たとえ相手が浮気していたとしても、
それを遠距離のせいにしてはいけない。
本当にお互い愛しているのであれば、
どんなに遠距離であっても愛だけは、愛(+信頼)だけは
絶対に壊れないと思う。
たとえ会えない時は、想像の世界のみであっても、
その世界ではいつもお互い愛し合っているから…

あとがき:皆様お久しぶりです。ここ最近多忙のためになかなか書くことができませんでした。ご迷惑おかけいたしまして申し訳ございません(ここ最近いつもだよ…)。m(_)m
それでこれから随時付け足していきます。日にちをうまく帳尻あわしてですけどね…とほほ(^^;)
 ここ最近仕事が多忙だったのと(出勤時間が1時間早くなったため)今週は体調不良でダウンしていて今までかけませんでした。私のラブリーエッセイを楽しみにお待ちしていた皆様非常に申し訳ございません。m(_)m

 さて、迷いに迷って今日はちょっぴり抑えめにしました。題して「ストーカー規制法施行記念?!テーマ」だったりして…とほほ(^^;)

 みなさんは恋をしたこと、少なからず1回はあるでしょう(今まで恋なんか全くしたことない方がいらっしゃれば本当にスミマセン)。でも、恋をしていてもそこからお互いに両思いになって本当の恋愛に発展していくのはなかなか難しいことでありましょう。(私だってそうですよ。片思いだけで終わったこと数知れず…とほほ(^^;))「恋愛」っていうけど、恋と愛は違うものですし、ただ単に恋してるからお互いに信じあえるようになって愛へと発展するものでありますから…信頼があるからこそ「愛する」ことができますし…。

 「恋」っていう言葉を国語辞書(三省堂のやつです…)で調べてみるとこうかかれてある。「恋〜(男女(これは同性であってもいいことなんですけどね…)の間で)好きで、あいたい、一緒になりたいと思う強い気持ち(を持つこと)」好きだと思う対象となっている相手(の気持ちや心など)のことは(一応)全く触れられていない。ということはぁ…恋するっていうのは一方的な片思いも十分入るわけですね。もちろんそこからお互いに愛するに発展すれば万々歳ですけどね←っていうかこれが一番ですね!

 ところが…これが相手のことを考えない方向に発展していくと…恋するがゆえに恋を成熟させるためには何でもやる…ゆくゆくは恋のためには手段を選ばない…そこから発展していくと、いわゆる「ストーキング行為」になってしまうのであります。ということは、恋をすることは、実はストーカーにもなる可能性をも秘めてるということなんですね。(もちろん恋だけがストーキングの理由ではないんですけど…そのうちの1つということです)恋って実は怖い…?!かもね…。

 でも、(よっぽどの人でなけりゃあ)怖がったり心配する必要はないと思います。相手からいやだと言われりゃあすぐに手を引くだろうし(未練はあるけど)、また違う相手を探す方向で前向き(=Positive)に考えるからね。私は…いろいろな人に手を出しちゃう方だからなあ…ハハハ(^^;)。

 あっ…、これらの他にも「恋そのものに恋しちゃう」っていうのもあるけど…それについては…この次の機会に…←ってあるのか…?!
 昨日の朝の某ワイドショー番組で、「性的交渉のない夫婦」を問題にして議論に取り上げていたが、その中である男性パネラーのうちの1人が「男はやっぱり女に対してはどこか性的に控えめで奥ゆかしさを求めてしまうんですよねえ、…だから女性が積極的に性交渉を要求されるとかえって引いてしまったりいやになってしまったりするんですよ。」とアドバイスめいた主張をしていました。

 しかし、私はこの意見に真っ向から反論します。こういった「女性に対して性的に受け身であってほしいという男性の主張」というものは、一見女性を喜ばせる性的サービス精神をあらわしているようで、実は単に「俺は女をいいように支配できるんだ」というようないわば男性自身の一人よがりでわがままな性的欲求にしか過ぎないと思う。性的に積極的な女性だと自分がリードを取れないから、何としてでも自分がリードをとりたいがゆえに性的に控えめな女性を求めているのである。本当に性的サービス精神を持っているならば、もし女性が積極的に求めたとしたら、喜んで引き受けるこそその女性に対しての礼儀である。だって、その女性は自ら積極的に快感を味わいたいんだから…(もしかしたら相手の男性に対しても積極的に喜ばせてあげたいといいう積極的なサービス精神を持っていることもあるんだし)。何より男性は、性的に積極的な女性が存在するというものをきちんと認め、なおかつそういった女性をしっかりと受け入れてほしいのである。

 もちろん女性に対しても私は言いたい。女性だって、性的な積極性を持つことは非常にいいことだと思う。だって、やっぱり気持ちいいんでっしょ。気持ちいいというのは、我慢できないんだし…。性的経験がある程度あって性的快感を覚えてしまった女性であるならば、もう性的な快感というものをちゃんとわかっているんだから…。「女たちよ、もうガマンしなくてもいいいんだよ!」
 どうも最近の私、だらだらモードみたいでして…本当にスミマセン。

 実は今日も日記の内容をどれにしようか4〜5つくらいテーマを考えていて、迷ってしまいました…。で、結果がこうなってしまいまして…一番最後に取り上げようかなあ…と思ったものです…ハハハ(^^;)。

 で、ほんだし…でなくって本題(←自滅)。最近の男性はそうではなくなったらしいけど、なにやら男性にとっては、未だに女性に対して「処女信仰」なるものが存在してるという。すなわち好きな女性に対してはなるべく自分とつきあう前での男性経験がないもしくは少ない方がいいというものなのであろう。

 これに対して、私は真っ向から否定する。「こんなの男どものわがままであって、全くのナンセンス!」ってね…。だって、これはまさしく女に対して「知らないことがいいこと」っていうのを求めているんだから、要するにその男の好きなようにしようとする半ば奴隷的ともとらえることのできる主従関係を女に対して押しつけているにしか過ぎないと思う。

 それに「女は経験の少ない方がいい」っていうのは、間違いなく不公平だと思う。それならこっちだってこういいたくなるよ!「女をいっぱい食い尽くしているような薄汚れた男なんていや!」ってね…。(←私は、男性に対しては、どんな男でも受け入れますけどね…←要するに男ったらしってヤツですね…ハハハ)

 さらには今時、成人になって「経験」がない女性なんて、そんなに見かけないと思う。(男性のように「両極端」になってきたっていう説もあるが)私の大学時代の友人だって、ちゃあんとしていたし…(そういう話をしていた仲間だったからなあ…ハハハ)、それだったら、好きになる女に対して、処女性を求めるのはもはやナンセンスであり、仮に経験済みだとしても、少ない方がいいっていうのも今のご時世を考えるとねえ…女が性的快感に目覚めちゃったんだからねえ…。だから、いつまでたっても「きれいである」女を求めるよりも、好きな女ならば、たとえ経験豊富であっても「愛」というものの元に受け入れることこそ、大切だと思う。

 …またまとまりのない文章になっちゃったなあ…スミマセン。
 2日間以上も内容について迷ってしまった…スミマセン。

 さて、この間私は某地元ミニコミ誌の営業社員(男・40代ながら独身生活を貫いている)の人(いつも仕事でお世話になっている)と超議論をしてしまいました。内容は男女平等論に関してですが、その中で性愛論までふれてしまいまして、その人が「男はいろいろな女に手を出しても許されるけど、女はそういうわけにはいかない。それが自然の摂理であるから」っていう主張をしてきた。つくづく「男の浮気は許されても、女の浮気は許されない」という男尊女卑的な浮気論に真っ向から反対する私にとっては、かなり熱のこもった議論で10歳以上も年上の方に対してまでかなり怒り口調での主張にまでなってしまったんであります…ハハハ。

 女性だって、今や性愛や性的快感を楽しむ時代になったから、男性陣が浮気をしているのであれば、女性だって積極的に浮気をしてもいいと思う。私は浮気賛成論者だからよけいにこういうけど、やっぱり女性だっていろいろな男と快感を楽しむからこそ、いろいろと人生経験にもなっていいと思う。「気持ちいい」ってことは、我慢できないことだし、我慢する必要ないんだから…。(そういう私は、やっぱり「気持ちいい」ってことに対して我慢できないですねえ…感じやすいから…)

 ちょっとこれ以上はまた長くなってしまうので続く…とほほ。(本当にスミマセン…)
 所用のために2日もあいてしまってすみません。

 で、今日のエッセイはズバリ「夢」です。っていっても、ここで私が語ることといえば、ズバリ「えっちで○○な夢」のことですけどね…(*^^*)

 考えてみれば、夢って、正夢っていうのもときにはあるけど、思いっきりすごいことまでできますよねえ…恋愛でいえば、本来願望を持っていなくても、イケナイと言われる「不倫」とか「略奪愛」とか…果てまた「乱○」とか犯罪まがい行為まで…(注:犯罪まがい行為は実際にやったら立派な犯罪行為になりかねないので皆様絶対にやらないでくださいね!)。

 それで、私、実はかなり「えっちな夢」を見るんですよ。まあ、中身は必ず「カラミ」ってヤツが含まれていて、そりゃあもういろいろとあんなことやこんなことをされたり…(ちょー爆)。しかも私の場合だと相手の男がまあいろんな方々が次々と登場して絡まれちゃうし…(以下内容が…のために自主規制)

 まあ、私は…実際の経験は一桁台ですけど…夢の中だと100人切りしているかも…あっ、念のためにいっておくけど、たいていは実在しない人物なんですね…相手は…(たまに好きな人や実在の人物←ちょっぴりあこがれていたりする人だけど…好きまではいってない…がでてきますけどね)。その架空の相手というのは、私のタイプである男なんですね。がっしり体型で顔はそれほどでもないかちょっぴりだけかっこいいとか…で、アプローチのされ方がまたいいのよねえ…最初は優しくしていて、だんだんと大胆になってしまいには激しくなってしまう…←それって、私の願望かも…うぅ…恥ずかしいっ…(*^^*)。

 みなさんも、夢とはいえ、たまには大胆になるような「えっちな夢」を見てはどうでしょうか…?ますますどきどきってなるかも…でも、あくまでも「夢」だからねえ…えへへ。(*^^*)
 昨日は途中で寝てしまいまして…楽しみにしているみなさん本当にすみません…。m(_)m

 で、前の日記で「私には運命の人が複数いる」って告白しました。それでみなさん思ったことでしょう。「運命の人が複数いるってどういうことよ〜っ!ふざけんじゃないわよ〜っ!」てね…。

 でも、私、これは本当に本当のことなんです!!「運命の人が複数いる」のは…。

 この中ではもうとっくの間に別れちゃった人もいるけど、でもその人は本当に運命の人のうちの1人として一応だけど感謝しているんですね。←別れたくせしてねえ…。

 っていうのも私当時(一応)つきあっていた男性がとにかく強引系で思いやりなんてまずなかった。でも私はとにかく彼氏がほしかっただけというのみでつきあっていたんだけど、本当は苦痛だった…いやだというのに…○○○…だし…、そのくせして「俺とつきあっているんだろ?」って…。でも、その「最初の運命の人」に出会ったおかげですんなりとその人のことを忘れて別れることができたし、たまにしかあえなかったけど、とにかくあった時にはやさしくしてくれた…だから本当に楽しかったし、ありがたかった…。○○な行為に快感を覚えたのもその人がいたからこそだったし…(ちょー爆)。

 で、それから何人かとつきあったりとかしたけど、いまいち同じ年(=学年)の男になると恋愛の対象になれなかったし、なることもなかった。それ故に私が恋愛の対象とするのはいつも年上の男ばかりだった(ま、今でも私は年上派ですけどね…だってエスコートされたいし甘えたいんだも〜ん(ちょー爆)←妹育ちなゆえか?!)。

 それだけでなくそのときにちょうどある男と別れたいなあ…と思っていて(ストーカーみたいなことをされたんで…)、どうしよう…と思っていた矢先に次なる運命の人に出会ってしまったのであった。そのきっかけは本当に偶然であったのだが、その人に出会ったことでその男ときっぱりと別れられたどころかその人が偶然にも同じ学年(しかも誕生日が2週間違い)だったので同じ学年の人に対してのコンプレックスまで克服することができました。(^^)その人とは今でも…ただし遠いけどね…。

 で、それからはしばらく恋愛から遠ざかっていたのだが、今年になって本格的にネットにはまってからはいろいろとありまして…一緒に観戦に行った人にあこがれちゃったりその前にも観戦で知り合った人にあこがれちゃったり…。

 それで、そのときにあこがれちゃった人が他の人を好きになってつきあいだしたので、もちろんそれからは私も大いにそのつきあいを応援しようと心に誓ったのだが、実は心の中では複雑な気持ちで葛藤状態だったんです…結構いい人だったし…。でも、これも偶然という名の運命なのか、そういうときに限ってなぜか私の前に現れるんですよ…「運命の人」が…?!

 私って、いったい何なんでしょうか?恋愛面に関していろいろとつらくなっちゃった時にちょうどいいタイミングで「運命の人」が現れるんなんて…それゆえにそれぞれの人についてみんな感謝の気持ちでいっぱいです…。

 みなさんも、ひょっとしたら、「あの人って、実は運命の人なのかなあ…」っていえる人が、必ずいると思いますよ!ひょっとしたらみなさんだって「運命の人」が複数いるかもしれないし…。

 何だかまとまりない文章になっちゃって、すみませんでした…とほほ(^^;)。
 私は特定のところではあるけれど、ネット上での交流をしているが、その中で恋愛や○○な話になったときにある人(それも何人か)が「私、実は男性恐怖症みたいなんで…」って言っていたんでねえ…彼氏はほしいけど、男の人になかなか面と向かって積極的におしゃべりすること苦手っていうみたいで…。

 そこで、実は私も昔は男性恐怖症だったということで、少しでもお役に立てればと思いまして未だに男性と積極的に近づくことができないという方へ、「私だって、昔は男性恐怖症だった」と告白します。

 なぜ昔は男性恐怖症だったかというと、ずばり「いじめにあっていた」んですよ…同級生の男から…(思い出したくない)。私は体型が太いのと顔があまり美人じゃあないのでよく「デブ」とか「ブス」って言われていたし、しかも私は結構特殊な性格を持っていたこともあってますますいじめにあっていたのだ。しかも田舎なのでいじめも小学校からそのまま中学校、しいては高校もほとんど小さいときからの同級生がそのまま進学するのでいじめが継続されていくんですね。だから私は本当に同級生の男が憎たらしかった…。心の底から憎たらしいと思っていました。でも何とかして自分から直さなきゃと思っていろいろと試したけど、高校時代は一番青春であるはずなのにとうとう1度も恋愛できずに…。だけど、大学になって、地元から離れたおかげもあって、男性と積極的に話せるようにはなりました。が、それでも恋愛になると(特に同学年と同じ部活では)いまいち消極的になっていたり、キャラクターと扱われちゃってねえ…要するに、「女」として、性的対象として扱われなかったわけ…。でもいじめられていたときよりもずっと積極的になれて男性に対してそれほど恐怖感を抱かなくなっていきましたよ。その後でたまたま同学年で出会った人(大学とは全く関係のない人、当時も今も社会人)から恋愛感情を抱かれてから、完全に自分が男性恐怖症から脱出することができました。ああ…私にだって、自分を女として、恋愛の対象として見てくれる人がいるんだなあ…って…。

 そういった、いわゆる「運命の人」って、必ずでてくると思うし、みんなも「運命の人」が必ず現れる!と信じて行動すれば、必ず男性恐怖症から立ち直ることができると思います。自分を恋愛の対象として見てくれる人は、必ず現れますよ!

 ということで、男性恐怖症から立ち直るためには、私の経験上だと「いろいろと出会いの場を広めておく」(=いろんなところに出かけて視野を広げる)、「今の生活環境を変える」(場所を変えるだけで効果大だけど、気もちを変えるだけでもいいと思います)、あとは「自分を恋愛の対象として見てくれる「運命の人」が現れると信じる!」ことですね。ほんの少しの勇気さえ、出すのをためらってしまう人もいるんだし…。

 ちょっといい加減なところもあったりして、本当にすみません…。でも、必ず「運命の人」は、現れますよ!1人だけでないのもあるし…(私は1人だけではありません…運命の人)
 昨日は頭痛でかけなくて(某チャットにはいってるくせして…)すみません。
今日は皆様ご期待?!の○○なネタを…。

 ということで、この間の「女の経験回数」の話題の続きっていうか延長戦みたいなヤツを…。

 これは私がいつも仕事上でお世話になっている某広報誌の営業担当者から聞いた話なのだが、某人気議論系番組で「○○○をいっぱいしたいと思っている女」が10数人かでてきて、その女たちは「たとえ1回だけでもいいから、いっぱいいろんな男の人と○○○を楽しみたい」という意見を主張しているとか…。でも、私思うに、やっとこういう意見を言う女が増えてきたんだなあ…ってね。

 なぜそう思ったかというと、女が○○○などの性的行為されることに快感を覚える環境が整ったからだと思う。一昔前までは女が○○○などの性的行為で快感を味わうということは(たとえあっても)表に出すことはタブーだったし、女は男の欲望を満たすためと子供を作るためだけに○○○などの行為をせざるを得なかった(表向きの)状況だった。それが、昨今の男女平等思想が世間的に認められて広まったことによって、女も性的快感を味わうことが表向きにも認められたのだ。

 だからこそ、今まで男がやってきた(今もだけどさ)いろいろと快感を楽しむことを、女がやってもいいと思う。だからいろいろな快感を味わい楽しむといった「いろんな○○○を楽しみたい」っていう意見がどんどん出てきていいと思うし、私も賛成である!(ただし防御すべきものはきっちりと自分の責任で防御させましょう)もちろん1人の人と深く味わいたいっていう意見を否定するつもりは全くない。1人の人のみであってもいろいろな○○○が楽しめることがある。で、私はというと…もうちょっといろんな人と○○○なことを楽しみ味わいたいなあ…って(やっぱりちょー爆)?!ハハハ(^^;)
 昨日はダブルチャットをしていたためにかけなくてすみません…m(_)m

 で、昨日のチャットのうちの1つのところで(某団体のでないやつ)ただ単に「ぎゅーっ」って抱かれるだけは純愛になるのかならないのかという話題があったのだが、果たしてどうなるんだろう?(ここであえて人物は紹介しませんけど)

 私としては、その後の展開をどうするかによって純愛になるか不純になるかが分かれると思う。たとえば「ぎゅーっ」って抱かれるだけで幸せで、そのままそばにいるだけでいいというだけの展開であれば十分に「純愛」だと思う。もしくは「ちゅー」するだけであってもまだ「純愛」だと思う。しかし、そこからいろいろと身体の方面にまで性的なものに展開して○○○にまでなってしまうと「不純」に当てはまってしまうと思う。

 でも、「不純」というのは決して悪いことではない。だって、いつかは身体の方面も許していかなくてはならない状況になってくるから、「不純な愛」であっても「愛」であることは変わらないんだから…。

 無理矢理結論。「純愛」と「不純」との境目は身体の方面、性的な方向にまで展開がいくかどうか。でも、結果としては…

  「純愛」も「不純」も、どっちも大切!

…だと思う。
 私はいわゆる「複数愛(=二股とか三つ股とかそれ以上も含んで複数の人を同時に愛し合っている状態のこと」賛成論者であります。ということで、今日はちょっぴり危険だけどマジメ+アルファ(=○○な内容…)で「複数愛」のススメを…。

 つきあいはじめや結婚し始めた時って、彼氏(彼女)あるいは夫(妻)だけの世界に浸っていてまさにラブラブ状態であることが多いらしいけど(私もまさしくそうでしたよ…(*^^*))、月日がたつにつれてしまいにマンネリ化してしまい○○○な関係もなくなったり、あってもいわゆる「義務と演技」だけになってしまうという。何だかそれってお互い好きで愛し合ってつきあってる身分なのにかわいそうだなあ…って思う。確かに新鮮みがなくなるからってことだけど、それでもお互いに愛し合っているんだからマンネリ化になってしまうのはかわいそうだと思う。

 では、その「マンネリ化」を防ぐためにも私はおすすめするのが危険だけど「複数愛」なのである。複数の人を愛することで、また違った自分をみることができるし、それゆえに一番愛する人に対して愛を確かめ合うことだってできると思う。

 その昔、バブル時代の頃、「本命・キープ君」なあんていうものがはやっていたりしていたけど、あれって私的に申し上げれば実は結構理にかなっているものかもしれない。たとえ本命の彼氏との仲がマンネリ化してもキープ君のおかげで違った自分が見いだせて、それが本命君との仲もマンネリ化を打破して再び新鮮みを帯びて維持できると思うから…。

 それに複数の人を愛するっていうことは、多角的な面で自分を見ることだってできるし、いろんな人を愛することは人間にとって大切なことですから、だからこそ不倫っていうわけじゃあないんだけど、「複数の人を愛する」ことで本当の彼氏(彼女)や夫(妻)への愛を維持のためにもなり得るし、私は「ある意味危険な賭け」ですけど、複数愛、おすすめします…。うへへへ( ̄ー ̄)ニヤリ。

(ただしルールとして、「略奪愛にまでは発展させてはイケナイ」、「子供を作ってはイケナイ」というのが「望ましい複数愛」ですけどね…)
 私は割とよく「愛してる」っていう言葉を使います。現にBayStarsの全てを愛してるし、BayStarsの選手はもちろん(しかも全員)、裏方さん(もちろん全員)や球団職員の方も全て愛している。もちろん好きな人は全員「愛してる」し、友達であってもたまに「愛してる」って言葉を使うときもあります。

 「愛してる」なんて軽々しくいうな!っていう意見もありますけど、どうなんでしょう?人間関係において「愛する」ことこそ、大切だと思う。「彼氏(彼女)又は夫(妻)に対してしか愛してるって使わないものだ」という人が結構多いけど、いわゆる「人」として「人間」を愛することって、実はすごく大切で必要なことだと思う。だからこそ、今現在どうしても自分自身を「愛する」ことができない私は、人を「愛する」ことを実行することによって自分を愛せるように磨きたいと思っている。

…今日もマジメ路線でした…ハハハ(^^;)
 昨日の日記があまりに刺激が強すぎたので、今日はちょっと大人しめにしておきます…未成年の方もお気に入りに登録しているし…とほほ。(^^;)
(だってぇ〜ここの日記の題名「Pillow Talk」の意味って、「○○○の時でのお互いにベッド上の会話」っていうんだからねえ…)

 さて、男女が交際しているとき、あるいは結婚している夫婦(ってたいてい夫婦といえば結婚しているんだけどね)の間で決まり文句みたいになっているのが「私(俺)だけを愛して」っていうせりふ。私にとっては実はありがた迷惑かな…って思っちゃうんだよねえ…私は結構誰に対しても好きなもの(人とは限りません…BayStarsっていうのもあるし…)は「愛してる」っていう言葉を使うし、現に浮気性だからねえ…ハハハ。

 彼氏(彼女)や夫(妻)に対して「私(俺)を一番愛して」っていうのだったら確かに気持ちも分かるし、その通りだと思う。でも、「私(俺)だけを愛して」っていうのは、どうかな…?って思う。何だか愛という名の元に相手を縛り付けているような感じがしてねえ…。

 私にはとても「私だけ愛して」なんていえないし、私だって相手に対して「私だけを愛する」っていうことを求めてなんかいない。だって、一見愛を求めているようで、実は愛という名の元に自分のものだけにしようと拘束して他のものを一切寄せ付けさせないみたいで、お互いに視野が狭くなって世間知らずになってしまいそう。2人だけの世界っていうわけにはいかないし、同姓の友達とのつきあいだって大切だし、知り合い同士の交流も大切だと思うから、愛という名の元に相手を拘束したくない。好きな人を一番愛するのは大切だけど、好きな人だけを愛するのはなんか違うと思う。そうなるとしまいには(極論だけど)好きな人以外何だか人間扱いしていないように見えてしまうし…。もっといろんな人を愛するっていうことも(人だけじゃなくものもだけど)大切だと思う。

 好きな人を大切にして愛するのは大事だけど、好きな人しか見ないのはよくないと思う。もちろんそれを相手に求めてもよくないと思う。本当に相手を大切にするんであれば、相手に対して拘束させないで信用して視野を広めさせる方が相手のためだと思います。

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